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保存会は30年前ぐらいに関わり始めた。その頃はいろいろな地区で神楽が復興し始めた時期だった。
おおよそ35~40年前に青年の集いや青年文化会で郷土芸能を舞うようになり、他の地区から代表が集まり青年大会が催されていた。その時期に神楽が復興されるようになり、各地区の芸能が復活し始めた。中浜神楽が復活したのは同時期で、話者の青年時代である。中浜地区以外でも神楽を踊り、競うようになった。教育委員会に登録する際に、「神楽保存会」という名称が決まった。保存会には青年である話者の世代は参加したが、自分たちより年上の先輩たち(古老)もいた。しかし彼らは保存会には入らなかった。とはいえ顧問とか指導は引き受けてくれた。
神楽を奉納したのは、天神社で、四月三日の祭典にあわせて奉納しながら踊ってきた。
『山元町史第一巻』(1971年刊)では、中浜神楽について「創始者は島田文三郎(現主竜平の父)で明治の末・大正初期は盛んだったが、一端断絶、その後、昭和42年6月中浜親友会(青年グループ)が発足し、活動を始めた」(要旨)と書かれていることを話者に尋ねる。すると、A氏は神楽を「おしえてはいるが、はじめたわけではない」と説明を加えた。さらにこの当時その孫が町史の編纂にかかわっていたので、その意見が反映されたのだろうという推察を述べた。
40数年前に神楽に携わる団体の名称が「保存会」と決まった。当時は地区の青年たちが踊っていた。自分たちより年上の世代では、青年会があり、そのなかに「神楽部」がった。彼らが明治期以降神楽を伝えてきた。
宮城県地域文化遺産プロジェクト
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