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自分が若い頃、祭の神輿を担ぐ人が祭に携わらなくなり、祭も神楽も行われていない時期が5~6年間あった。地区に青年はいたが、労働形態が農作業から「務め仕事」に変わるなどの社会情勢の変化から、祭だけでなく様々な行事も行われなくなった。
そのときに、「親友会」がたちあがった。青年会は、中学を卒業した長男のみが入会し、いくつかの「きまり」があり、厳しかった。親友会は、長男に限らず二男、三男、「務め仕事」の人でも誰でも参加できた。中浜以外では青年会がある地区もあった。
親友会が神楽を再び舞うようになり、青年会にかわって保存会となった。神楽を継承し、大会に参加するようになった。親友会のなかには、「神楽部」「音楽部」「演劇部」などがあった。弁論大会などもやった。月1回ぐらい集まって俳句を作る会もあった。この時の俳句の講師は、町史1巻にでてくるB氏である。ホゴコウハンという俳号だった。
親友会は、集会所の改築、街灯の設置、夜間時の防犯活動など、地区の問題を協議する町政懇談会にも参加した。親友会は全体で35人ほどが会員であり、その内30人ほどが活動に参加した。親友会は、長男が農業から離れていく時代の変わり目に結成された、考えが一歩踏み込んだ新しい時代の組織であった。
民俗芸能の大会があり、親友会の神楽部は参加するようになった。この親友会の活動は元々は中浜公会堂でやっていたが、ぼろぼろになったので、現在まであった集会所に変わった。
神楽部は18から23/24才ぐらいの男性で構成。結婚すると出てこなくなった。上の世代から指導を受けた。個人の自宅にお邪魔して、教えを請うた。それぞれ個人で得意な演目を持っている。そこにいき、座敷で教えてもらった。年配者が若年層に指導するのは、青年会でも同様であった。
こうした活動は当時は楽しみだった。祭典の近く、2-3週間ぐらい前になると練習した。当時はテレビもなく、神楽をみるのがたのしみだった。こどもは一定の年代になるまで神楽の練習はやらないが、演舞の一部を目で見て覚えていた。
宮城県地域文化遺産プロジェクト
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