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地区の浜通り側に自宅。学校のすぐ近くだった。全部津波で流出した。屋敷の一つの棟には自分と母がくらし、別棟には兄貴の夫婦が暮らしていた。母親は1月に亡くなった。急に動けなくなって病院にいってそれで亡くなった。兄貴夫婦も仮設に暮らしている。仮設にいると足にくる。寒い。
母親は元々は夕方になると押し車で散歩を良くしていた。仮設にきては「出て歩け」といっても出なかった。母は満で89歳、数えで91歳。3月に誕生日なので90歳になるところだった。父は12-13年前に亡くなった。
自分は震災の時に町会議員をやっていた。それで中学校の卒業式があり、午後からは町役場で議会の委員会があった。地震があって、車で家にもどる途中、渋滞した。それで回り道して下に降りようとしたら、真っ黒なものが見えた。津波だった。地震から1時間ぐらいたっていたと思う。
兄貴はにげろといわれたがにげなかった(?)。その後母と兄が坂元中学校に避難しているのを確認した。
中浜小学校では子どもが最上階の屋根の部分に避難しており、こどもを何とかして欲しいという連絡があった。役場にいって救出依頼を頼んだらすでに自衛隊に救助依頼をしていた。子どもは3階の屋根裏部分にいたが、水は2階まできた。次の日朝5時頃に相模原自衛隊がきて中浜小の60人ぐらいの子ども+住民30名ぐらいを救出した。避難所にいても、ずぶぬれの人が入ってきたりしていた。
宮城県地域文化遺産プロジェクト
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