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笠野・新浜地区は住居の新築は禁止されているが、神社は新たに建造することを許されているため、同じ場所での再建を目指す。より安全なところに社殿を構えはしないのかというと、それは考えていないという。その理由については下記のようにいくつかある。
八重垣神社が建立されてから1,200年の間に何回も津波にあっただろうと思う。話者は、ここで、安全な山などに逃げたら「かっこわるい」という。スサノオノミコトは海の神様であり、津波被害などを鎮めるために選ばれたのかもしれないので、現在の海の近くから移転する気はない。また、八重垣神社のある笠野地区の南部分は、地域で一番低い土地であり、村を疫病から守るためにここに建立されたのかもしれない。1,000年間かけて清めてきた場所だから、そこから、障りのある場所に神様をつれていくわけにはいかない。
御神体は木の箱に入っていた。宮司になったときに母親に「あなたもみておきなさい」と言われたが、その当時は「私は俗っぽいから(単なる)物にしか見えないかもしれない」と思いみなかった。その御神体も、津波で流されてしまった。神社の片付けに来てくれた若い者に「京都の方にもらいにいってあげようか」などといわれたが、そもそも本当にお祀りしていた神様がスサノオノミコトかも分からないし、御神体は依代だからいらないといった。
また、話者は再び社殿が「流されても、それはそれで構わない」といった。つまり社殿が消失することについて、話者はそれを重要なこととは考えていない。宗教として生き続けることに重要性があるのであって、建物の頑丈さ、建物が残り続けること自体はさほど重要ではないと考えている。今後、地震や津波がおこり社殿が流されたらその年代の人たちが再建すればいい。たとえば、伊勢神宮は20年毎に新たに建立するように、神道は生き続ける宗教だから、原点に帰ったと思えばなんでもない。話者は「神道はこれだわと思った」という。神様は、その空間にいて、社などには人間の都合で降りてきてもらう。八重垣神社は全部流されたが、神様はここ(八重垣神社が元々あった場所)にいる。文化財的には神社の建物が「大好きだったから、がっかりしたし、社殿がもったいなかった」という。しかし、「それは形の話だから」という。
八重垣神社には、献膳講という講があった。1チーム20名前後で、40程ある。亘理や角田市、梁川、原町から1月15日未明に八重垣神社に来て、暁参りをし、御札を持って帰る。今年はお休みにしようかと思ったが、講中の人と相談したら、一度やめると再開するのが大変だから続けようという話になった。今年は、社務所も流されたので山元町小平の老人憩の家で集まることに決めてある。
震災後、笠野地区・新浜地区に住む氏子の方々は仮設住宅や角田など、神社から離れたところに住むことになった。氏子が減った状態で、八重垣神社はどうなっていくのか。宮司は、このような講もあるし、崇敬神社として存続していく道もあると考えているという。
宮城県地域文化遺産プロジェクト
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