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下増田神社の境内に山の神社がある。もともと集落内の松林にあった「山の神」と書かれた石塔を、神社の境内に社を立ててその中に移して祀ったものと聞いている(移設の時期等はわからないという)。
北釜の山の神は、「小牛田の山の神の姉」であるといわれている。北釜の山の神は、子授け、安産の神として、とくに女性から信仰されている。山の神講があり、集落外にも講員がいる。北釜では、すべての家の嫁が山の神講に入っていたが、現在は、16から17名が講員である。
春に祭りがあり、下増田の各集落はもとより、館腰、袋原、閖上などから参拝に来る。参拝客に対して、北釜の山の神講がボウフウ(浜ボウともいう)の酢味噌あえや鮭のハラコメシをつくり、もてなした。青年団はハタ(幟)を立てるなどの手伝いをした。
春の祭りの時には、集落はずれの松林(営林署の所有地)の中のいちばん大きな松の木(三つ又だった)まで歩いていって供え物をした。その後、この松の木を営林署が伐採してしまい、以来、行っていない。
ここの信仰は、小牛田の山の神のものと似ているという。安産を願う人は、山の神社の中におかれているマクラ(お手玉の3~4倍の大きさ)を借りていき、無事出産できたら新たにもう一つマクラをつくって、借りてきたものとあわせて納める。これは、小牛田の山の神で行なわれている習俗と同様のものである。話者の妻によれば、この習俗は話者夫婦よりも上の世代は行っていたといい、自身は行っていない。また、他の集落の山の神講が解散するときには、山の神の掛け軸を、北釜の山の神に納めに来た。
津波で山の神社は流されなかった。「社殿が浮き上がっただけで元の位置にそのまま残った」。マクラも、津波の泥で汚れたが社の中に残っているという。「北釜の女は強い」ので、「女の神」である山の神も流されずに残ったといわれている。
平成24年は、1月29日(日)に山の神の祭りを行なう予定である。講員で相談したが、「今年やらないと、次からやらなくなる」と言って、やることにした。仮設住宅からみんなで山の神社へ行き、そこで祈祷後、料理屋へ行って食事をする予定である(津波前は、当番の家で仕出し屋から料理を取って食べていた)。
なお、戦時中は、国防婦人会が山の神の祭りを行なっていたという。
宮城県地域文化遺産プロジェクト
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