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むかしは漁業をしており、カクアミ漁の船を出していた。北釜の浜から10人くらい乗った船を出し、網を海に沈めておき、翌朝その網を取りに行く。春はイワシ、秋はサケが獲れた。ほかにもアジやカニ、タイなどが獲れた。冬にはマンガンという大きな鉤状の道具で砂地をひっかき、ホッキ貝を獲った。漁は20年ほど前から行われていない。
漁には男性だけが参加し、女性は船に乗ってはいけなかった。女性の乗船が禁じられているのは、女性は月経があり、穢れるためだと言われていた。女性は浜で船が戻ってくるのを待ち、獲れた魚を自転車に積むか駕籠に入れて背負い、売りにいった。行商して売りに行く女性をイサバといい、下増田地区の内陸部まで売りに行った。
船と網を持ち、漁師を使うひとのことをヤヌシ、もしくは網主、船主と言った。船主は春になると、その年の漁に使う太い縄を綯うためにひとを集めた。縄は網を海に入れる際に使うものだが、話者は詳しくは分からないという。
船主は経済的に豊かなひとで、数軒あった。たとえば、屋号シンヤ(新屋)と屋号トウフヤ(豆腐屋)である。新屋のB氏は元下増田村長である。豆腐屋は、C氏とD氏の父子の家で、C氏はかつて下増田村役場に勤める重役であった。新家と豆腐屋は同姓だが、本分家関係にはない。
宮城県地域文化遺産プロジェクト
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