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話者は現在の閖上2丁目で、長女として生まれた。父親はトヨ丸の船主のもとで船頭をしていた。トヨ丸の船主は話者宅の向かい側に住んでいた。話者の上に兄がおり、彼は郵便局に勤めていた。話者の下には妹が2名いる。
話者は昭和16年に宮城県女子師範学校(昭和18年より宮城師範学校女子部となっている)に入学し、閖上を離れて宿舎で生活した。昭和20年頃の半年間は、群馬県館林の零式艦上戦闘機を製造する軍事工場に同級生とともに学徒動員された。米軍による空襲を受けた。群馬県で終戦を迎え、昭和20年9月から宮城に戻り、再び通学した。
昭和21年に卒業すると4月から閖上国民学校(その後、閖上町立閖上小学校に改称)に教員として務めた。本来教師は実家から離れた学校に勤務するが、当時は教員の給与だけでは生活ができなかったので、話者は実家から通えるように閖上小学校に赴任した。当時の話者の月給は47円であったが、男性教員の月給は52円だった。しかし、話者の給与は女性の先輩教員よりも高かった。
話者はその後、増田小学校などの小学校で教員を務めた後、再び閖上小学校に勤務し、57歳で退職した。現在は婦人会の活動に参加し、名取市文化財保護審議会委員を務めている。震災前は閖上7丁目に居住し、夫との間に息子と娘がいた。夫は平成18年に亡くなっており、娘も津波により死去している。
宮城県地域文化遺産プロジェクト
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