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東日本大震災により、名取市で約900名の死者があり、その大半が閖上の住民であった。話者が他のひとから聞いた話では、地震のあと、家屋の損壊状況を確認するために家の外に出たひとが、名取側から水が引き、仙台市若林区六郷の方まで川底が見えたと言っていたひとがいた。津波の前に川の水も引いたということである。
しかし、上町や新町のひとたちは、津波が来ると思っていなかったし、それも知らされなかった。かつては地震のあと、漁師は海を見に来て津波の有無を調べたが、現在はそれをするひとがいなくなったので、津波が来ることもわからなかった。消防団が声をかけて歩いたと言うが、呼びかけている本人は一生懸命でも、聞く側はあっという間に通り過ぎられて何を言われたのか理解できなかった。
話者は息子が運転する車で避難していた。道路が渋滞していたので、横道にそれて移動したため渋滞にははまらなかった。車ごと津波で流され、物置に車が引っかかたのでその物置の2階に上り、助かることができた。
その後閖上中学校に避難し一夜を明かしたが、血圧が高くなり、翌日仙台市のJR仙台病院に搬送された。その後避難所に戻ることができず、親戚の家に半月ほどいた。仮設住宅に入ることもできなかった。そのため、話者の妹が入居していたアパートに、空き部屋ができたら教えてほしいと妹に頼んでおいた。そのころちょうど妹の部屋の隣の部屋が空いた。その部屋はすでに不動産屋が次の借り手を得ていたが、妹が大家さんを通して頼み、話者は現在地で生活するようになった。現在は息子と住んでいる。
話者の家の墓は東場にあったが、東日本大震災の津波により墓石だけは残り遺骨はなくなった。話者の夫は平成18年に亡くなっているが、遺骨がなくなったので、代わりに免許証を遺骨の代わりとしている。この免許証は、話者の夫が生前乗っていた車の中に入れたままになっていたので、車を売ったひとから返却され、自宅で保管していた。その免許証が津波で流されて、小塚原にあったファミリーマートから見つかり、岩沼警察署に届けられたのである。
話者には娘がおり、他家に嫁ぎ、学校教員をしていた。震災当日は卒業式に出席したあと着物姿のままで話者を訪ねてきた。話者に会った後、兄が来てくれたから母親は大丈夫だと思い帰る途中で津波にあった。話者は、娘が着物姿だったので、遺体をすぐに娘だと確認できた。
昭和8年の三陸津波のときには、貞山堀を逆流し、中島丁まで津波が来たが、その後は町区にあがらなかった。津波の被害を記録した石碑が日和山にあるのは知っている。
宮城県地域文化遺産プロジェクト
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