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仙台市若林区の荒浜は、貞山堀に面した浜辺の集落であり、堀に面して両側に家が並び、南北2つの橋によって4つの区域が分かれ、少し内陸の方に昭和50年代にできた新町を併せて形成されていた。北の橋(「深沼橋」)から北へ向かって浜側が東町(約100人)、内陸側が北町(約50人)、北の橋と南の橋(「あさひ橋」)のあいだの浜側が南町(約100人)、内陸側が西町(約150人)に分かれていた。今回の東日本大震災による大津波では、死者186名のうち、新町の83名が目立った。
荒浜は、近世はシビ(クロマグロ)の巻き網やイワシの地曳網、近代はカク網(小型定置網)や貝曳き漁、刺し網などの多様な漁業を行なっていたムラであった。話者からは、特に貞山堀の漁業を中心にお聞きした。
荒浜では、南風をイナサと呼び、「情けのイナサ」とも称して、特に3月末のハッテラさん(八大龍神のこと)の祭りの日にイナサが吹き始めると、荒浜に漁をもたらすといわれていた。たとえば、3月なかばから、桜の花が咲く4月末までは、貞山堀にシラスウナギがやってきた。ヨシのそばの泥の中にいるが、頭の毛のような細かな稚魚をすくった。それを静岡県に送り出すが、茶碗1つで1万円にもなった時期があったという。
シラスウナギ漁は夜の満ち潮のときにも行なわれた。胴長靴をはいて、夜の9時前の2時間、多い時で700匹くらいを捕り、昼夜合わせて50万円にもなった。
貞山堀は淡水と海水とが交じり合う汽水域でもある。夏にはジョレンを用いたシジミ採りも盛んであった。春先や秋の満潮時の前には、魚の餌になるゴカイが白く固まって流れてきた。ハゼもボラもコイも以前はよく捕った。貞山堀は、荒浜の人々にとって、楽しみであり、生きがいの場所でもあった。
貞山堀と荒浜の人々との関わりは漁業に関わることだけではなかった。かつて、この集落で出羽参詣が盛んだったころ、参詣中の無事を祈願して、毎日その子どもたちが海や貞山堀で水垢離をとった。「ダイゴウ繁盛、タカモリー!」と叫びながら、水に入ったという。
初物のキュウリは「カッパに上げる」といって、貞山堀に流した。7月7日のナノカビには、7回餅を食べて、7回この堀で泳いだ。これらは、もう行なっていないが、毎年、8月20日には灯籠流しがある。貞山堀で、盆に帰ってきた先祖たちを送るために、毎戸が灯籠を持ってきて、ここから海へ向けて流す行事である。
荒浜の漁師たちは、仙台新港に船を繋いでいたが、正月用のホッキ貝を採る漁のことを「オマカナイ漁」と呼んだ。年納めの漁として、9艘の船が組んで行う集団漁で、2日くらい沖へ出た。分け前は平等で、「仲良くするためにこういうことをしている」という。
宮城県地域文化遺産プロジェクト
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