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移転したのはほとんど農家であり、移転後も農業を続けているが、現在では若い人の多くは勤め人になっている。海軍工廠建設にともない接収された桜木・明月台の農地は戦後戻ってきたが、昭和39年の新産業都市指定にともない再び買収され、現在は八幡小学校の近く農地がある(話者①)。話者②の農地は陸上自衛隊多賀城駐屯地や仙台新港のあたりにもあった。農地は田と畑が半々ぐらい。畑は秋から春には小麦を、春から秋にかけてはキュウリ、ウリ、スイカ、ナス、ゴボウ、ニンジン、ナガイモなど何でも植えた。海岸に近い農地は砂地のため、畑にしかならなかった。
果樹栽培では梨が盛ん。梨畑はあちこちにあり、八幡神社のあたりも梨畑だった。戦後、元市長・鈴木和夫のお祖父さん[多賀城村長?]の頃、食料増産の時期で「どれだけ植えても良い」というので、高崎の今の「さざんかの森」に馬車で苗木を運び、梨の木180本を植えた(話者②)。その後、史跡整備事業により買い上げられ、隣接する民家も移転した。多賀城廃寺のあたりで、掘ると刀鍛冶の跡などいろいろなものが出てきた。
畑で獲れた野菜はおばあちゃんがリヤカーで塩竃に売りに行った。青果市場に卸すのも塩竃が多い。逆に塩竃から自転車で魚の行商が来ることも多かった。商売では塩竃との付き合いが深い。
どちらかといえば自給自足的な暮らしが続いたのは高度成長の頃まで。昭和48年、新産業都市指定により整備された仙台新港にフェリーが就航すると、トレーラーの運転手が少ないということで、農作業の傍ら、運転手として働きに出た(話者②)。ソニーの前身である東京通信工業株式会社や日立、東北電力などの工場が建設され、長男は畑仕事、次三男が工場勤務というのが多くなった。
宮城県地域文化遺産プロジェクト
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