G-1 多賀城市八幡地区

2011
G-1 多賀城市八幡地区
(PDF) 

[調査日]2011 年 11 月 4 日(金)

[報告者]
菊地暁 
[調査者]
菊地暁 
[補助調査者]
沼田愛 
[話者]
(1)G037農業(1936年生れ - 男) (2)G034(1943年生れ - 男) (3)G038話者①の父(1916年生れ - 男) (4)G039話者①の妻/仙台市福田町出身(生年不明 - 女) 
社会組織

 旧沖区の三村では中谷地が最も古く、最初に宮内が分かれ、次いで原が分かれた。近所づきあいは移転後も変わりなく続いている。現在でも中谷地、宮内、原の旧住民がそれぞれまとまって住んでおり、それぞれに契約講がある。周辺では契約講を止めたところも多いが、親睦のためにはあったほうが良いということを話し合った結果、続けている。
 契約講に加入する年齢は特に定められてない。話者②は先代に「勉強になるから」と勧められ、40歳そこそこで加入、年長の話者①よりも先だった。契約講以外の年齢集団はない。成年式のようなものも特にない。
 話者①は昨年から契約講の講長を務めている。かつて話者①の父も務めていて、そのあと2、3人別の方がつとめて、話者①になった。年1回、3月第1日曜に講員が集まって飲み食いしている。もともと講員の家で持ち回りだったが、後に公民館を使うようになり、現在は「移動契約」といって、会費制で松島あたりに日帰りで出かけている。公民館でやっていた頃はモチをついて、あんころモチを食べた。今年は出かけるのを中止して、近場の食堂で食事だけした。
 中谷地の講員は16軒。萩原神社の氏子もこれと同じであるため、神社の運営も契約講で相談する。当番の回し方も昔から変わらない。帳面の類も残っている。昔は講長が冠婚葬祭を差配し、葬儀になると、誰それは米をもってこい、誰それは野菜をもってこい、誰それは人出だけで良い、と、それぞれの家の事情を踏まえて分担させた。六尺、穴掘などもそうやって決められた。葬祭業者が入ってきてからは、そうしたことはしなくなった。宮内では震災で亡くなった人もおり、契約講で見舞金を集めた。
 中谷地では「大場」姓が多いが、親類の集まりといったものは特にない。話者①家は話者①の父で5代目になり、A家が本家らしいが、ホンケベッケの付き合いはしていない。話者②家は350年前から続いており、東田中のJAの近くに住むB家をタノミホンケとしてホンケベッケの関係を結んでいた。新築祝いなどで贈答があったが、現在は特に付き合いはない。新築祝いも最近はホテルを借りてすることが多く、自宅ではされなくなっている。
 話者①家の檀那寺は仙台市宮城野区蒲生鍋沼の専能寺(浄土真宗)である。墓場はもともと移転前の家の前、現在の三菱農機跡地にあり、ノランバといっていたが、移転に際して専能寺に移した。この寺も津波で被災した。
 話者①は昭和36年に、話者②は昭和39年に、それぞれ自宅で結婚式を挙げた。婿、仲人、親類で嫁を迎えに行き、嫁の家で儀式を挙げた後、嫁の親類とともに婿の家に戻り、そこで儀式を挙げた。新郎新婦と仲人が正面に座り、両家の近しいひとが上座から順に座った。順に杯を回し、仲人の謡いもあった。移動はバスを使い、タンス、三面鏡などの嫁入り道具はトラックで運んだ。嫁入り道具は津波で油混じりの海水に浸かってしまい、全部ダメになった。

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