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この地区は松島でも最も古い契約講がある。その記録は講長が持っているが、古いものは明治の最初であり、相澤さんがこれについてまとめたものがある(相澤繁雄「上幡谷契約講の古い記録について」複写)。そういた記録には、今もその子孫がこの地区に残っている。自分の家も含め、この地区の古くからの家は「伊達さま以前」からある。明治まではそれほど住民は変わらなかったが、戦後になって分家したり、外から移り住んでくる人が増えた。契約講の名前は「神風講」である。
上幡谷は契約講がきちんとしている。もともと、古くからの住民14戸がひとつの契約講であったが、約20年前?新しい住民で作っていた2つの契約講と合同し、70戸程度の契約講になり、現在に至る。まあもともとは行政の末端機構といった役割であるけれども、別に7つの部落には行政委員(組長)がいる。そして班、隣組が普段の暮らしでは重要だ。かつては仙台藩のお山ことでヤマモリ(ヤグモリ)を務めた。またカヤ(共有地)は2名が当番で行って、茅葺きの茅を刈り、それを講中に分けた。
講の大切な役割は葬式である。記録でも葬式で使う膳や椀などを講長が引き継いで、それを葬式の時に使い、また講中は葬式の時にいろいろとした。
自分が講長だった時に講を「合理化」した。だんだん他所へ引っ越す家も出てきて、過疎化、高齢化でいろいろと問題がでてきた。今は57戸、夫婦でいる世帯は3,000円、一人暮らしは1,500円。総会は部落会に引き続きするので、ほとんど部落会と変わらない。役員手当は役員につく。役員は講中の法事などに行くために、お布施が必要で、3,000円くらい包むからだ。役員の任期は2年間。宴会の道具は30人分を持っているが、30年前に講中で共同の祭壇を購入し、これを使うことで、経費や出費を節約できるようになった。
宮城県地域文化遺産プロジェクト
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