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被災時は石巻市内(石巻市中心街のことか?)にいて、2日間、自宅に帰れなかった。石巻で義兄が入院していたので、その見舞いに行っていた。帰りたくても帰れなかった。13日の午後、林道の土砂崩れをよけて雄勝まで通れるようになってから帰った。湯殿山(バイパス側)で、1日過ごした。次の日は、石巻線伝いに歩いて、蛇田のおじさんの家に行った。その時も1日泊まった。そこで車を借りて、普段は通らない真野林道を通って帰ってきた。
帰ってきてからは消防活動をしていた。家は、50年ぐらいの家だったから潰れると思っていたが、大丈夫だった。妻(1954年生まれ)がいなくなったと分かったのは3日目。子どもたちは、自分と妻が一緒にいると思っていた。息子たちと一緒に情報を集めていたが、見つからなかった。飯野川の遺体安置所に行ってもいなかった。
妻は、メンバーではないが、嫁に来てから1市9町で行っていた神楽大会に参加していたが、近年は体調を悪くして、行ってなかった。妻には、神楽の衣装のほころびを縫ってもらっていた。前は、会長の奥さんがやっていた。会長の奥さんも、今回亡くなった。
ガソリンがないから、使えない車からガソリンを抜き取って、使える車に渡していた。
(奥さんは、修理以外に携わっていたか?という質問に対して)携わっていない。神社には、自分の家のように入って行った。昔から入っているから。
宮城県地域文化遺産プロジェクト
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