Q-1 南三陸町戸倉波伝谷地区

2011
Q-1 南三陸町戸倉波伝谷地区
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[調査日]2012 年 2 月 26 日(日)

[報告者]
政岡伸洋 
[調査者]
政岡伸洋 
[補助調査者]
岡山卓矢 ・ 遠藤健悟 ・ 大沼知 
[話者]
(1)Q120(1954年生れ - 男) 
津波の被害について

 話者は、前日に葬儀があって遅くまで出ていたので、地震の時はちょうど昼寝中だった。揺れが強く、テーブルにつかまりテレビを押さえたりしたが、壊れたのは食器程度で、瓦も落ちておらず、それほど被害は出てなかった。津波が来ると思ったので、すぐに港に向かい、大きい船と小さい船2艘で沖に出た。沖に船を出した人は、その時海で仕事をしていた人がほとんどで、わざわざ陸から出たのは2~3人くらいだった。
 沖へ出て行ったら、そこに津波が来た。これまでの経験だと、沖へ出ればじわっときて波の上下で船がゆらゆらと揺れる程度であるが、今回の津波は、最初はじわっときたが、その後は台風や低気圧の時化のときのようで、ケタ違いでこういうのは初めてであった。チリ地震津波の際にも今回同様に竹島まで潮は引いたが、チリ地震津波の際には走っても逃げられるくらいの速さだったが、今回はその勢いが違っており、映画でも見ているようであった。
 沖では、がれきだらけになっていたため、あまり動きが取れなくなってしまった。最初は大きい船に乗っていたが網がスクリューに絡まり動かなくなったので、小さい船に乗り換えて波伝谷漁港まで行くと、再び津波が来て一気に波とともにカキ剥き場辺りから堤防を越えて398号線沿いに流され、ヌマカ辺りの堤防を越え、滝から落ちるような感じで再び海に戻った。この時、集落内は電柱の高さくらいまで水が来ており、屋敷林の上のところがかろうじて水面から出ていた程度で、あとはもう何もなかった。これが17時頃であった。
 その後、神割崎辺りに一度引っかかったが、今度は反対方向に流され、2回くらいどこかの島に引っ掛かったりしながら気仙沼の手前の岩井崎近くまで流された。すると、工事用のクレーンがついた台船があったので乗り移り、サロンのような部屋があって鍵がかかっていたので窓を壊して中に入り、ガスの火で暖をとったり、そこにあったジュースを飲んだりして一晩をしのいだ。
 翌12日は、夜明け前にまた南の方へ流され、ちょうど波伝谷に近付いた辺りで夜が明けた。すると、魔王神社の岬に人が見えたので上陸し、そこに合流した。周りを見ると、高台など3か所くらいにみんなが避難しているのが見えた。そして、6-7時頃に海洋青年の家(志津川自然の家)へ向かい合流した。それぞれの場所からも集まってきた。
 話者は、堤防のところに駐車し、車の中に携帯電話も置いてきたので、誰とも連絡が取れなかった。今回の津波では、水深30メートルの沖まで出たのにスキーのように押し流されたが、50メートルのところまで出た人は流されることはなかったようである。テレビなどで学者が津波の高さを言っていたが、見たところそれ以上の高さだった。
 波伝谷で亡くなったのは、一度避難してから車や通帳を取りに戻った人が多かった。また、声をかけても動こうとしなかったおばあさんも亡くなった。ある中学生は、いったん学校に避難したが、そこで津波に会い、波に追いかけられ逃げたが飲まれてしまったという。中学校ではそういった生徒がかなりいたそうである。指定避難所も津波を受けたし、夜に津波が来ていたら、たいへんなことになっていた。

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