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震災翌日も、まだ波が行ったり来たりしていた。一人なら逃げられるが、ばあちゃんと一緒で車も動かせる状態ではなかったので、逃げられるか心配だった。しかし、歩いて海洋青年の家へ移動することになった。
海洋青年の家に着いたのは、3月12日の午前10時ごろで、とにかく体育館へということで長靴のまま入り、他の人も集まってきて、そこに布団を敷いて寝た。波伝谷の人は、ほとんどここに避難しており、200人近くの人がいた。海洋青年の家は宿泊施設なのでよかった。ちょうどこの時、実習の授業で志津川から高校生が何人か来ていていろいろと手伝ってくれた。調理師もいて人も大勢いたが、調理器具などは揃っていた。
震災翌日(3月12日)から、男性を中心に被害の様子を見ながら、食料などを探しはじめていた。海洋青年の家で、避難所の役割分担が始まったのは3日後くらいで、物資班や給食班など、区長さんを中心にして自然と始まった。ただ、トイレの水がたいへんで、洗い物も下の沢まで行かなければならなかった。
話者は、5、6日後に、高齢のばあちゃんと一緒だったので、妹が嫁いでいる登米市へ向かった。道路はがれきや破損で通れなかったので、登米市に知り合いのいるお年寄り数名と、避難所から道路が使えると聞いた折立の黒崎のはずれまで船に乗って向かうことになった。船での移動に際しては、がれきがスクリューに絡むとたいへんなので、男性2名を見張りに立たせて移動した。折立に着き国道45号線まで出ると、ホテル観洋に勤めている人の車があったので、それに乗って横山まで行った。話者は、海洋青年の家へ残って炊き出しなどをしたかったが、ばあちゃんのことも心配だったので、その後も息子さんやお孫さんが残っていたこともあり、横山と海洋青年の家を行ったり来たりしていた。折立から海洋青年の家までは、道路ががれきで通れなかったので、歩いて移動していた。
4月4日には、ばあちゃんと一緒に鳴子へ移動することになった。息子さんは海洋青年の家に残ることにした。鳴子に移ったのは、南三陸町の指示があったからで、話者を含め、鳴子ホテルには160名ほどが避難していた。そのほとんどは戸倉地区の人だった。鳴子ホテルでは、みんなが親切で温かく迎えてくれたので、心が安らいだ。でも、状況が状況なので、どんなに温泉に入ってもリラックスできたというようにはならなかった。ここでは世話役も決めていた。鳴子ホテルには7月28日ごろまでお世話になって、その後は同じ鳴子にある農民の家に移った。波伝谷仮設住宅が8月のお盆のころに完成したので、8月22日に波伝谷に戻ってきた。
宮城県地域文化遺産プロジェクト
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