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震災当時、自分は市内(市街地)にいた。工場で加工するための原料を運搬中に被災した。当時工場では16名(うち2名は実子)が働いていた。津波が来るのはわかっていたので、従業員は自宅に帰し、息子に工場の真空包装機など高価な設備をフォークリフトで避難させた。魚市場が見える裏の山(地所)に家族4人ほどで登り、海の方を見ていた。なかなか来なかったが、桟橋が見えるくらいに海水が引いたかと思ったら、1丈(約3メートル)ほどの高さの津波が襲ってきた。コンテナや船が波に流され、外洋に逃げようとした船も内湾に押し戻され、約20キロぐらいの速度でぶつかり合いながら渦を巻いていた。川沿いに遡上した波に乗せられて川の上流に流された船もあったようだ。引き波の威力は強く、家々の屋根がながされていった。内桟橋は流されて唐桑の小鯖に流れ着いたという。
伝聞で自宅にも水が入ったことを知った。当初はサッシの半分ほどと聞いていたが結局屋根まで、290センチほどまで浸水した。水はすぐ引いたので家がさほど傷まなかったのは幸いだった。自動車は4台あったが、軽トラック1台は家の中へ、乗用車(カローラ・アクシオ)は玄関の土間に入っていて、2トントラックが家の中まで流された。どうも津波は山の尾根伝いに杉林を通って自宅に至ったらしい。
後で聞いたところでは通りから自宅に入る入り口にある須賀神社にも避難した人々があり、神社の幟を体に巻いて寒さをしのいだ人もいるという。
家は、外見こそ一部損壊であったが(判定は半壊)、内部は津波で家具が倒れ、泥まみれだった。現在では、ボランティアや親戚に清掃してもらい以前のように暮らし続けている。のべ20人のボランティアがヘドロなどをかきだして清掃してくれた。
4棟あった工場はばらばらになってしまった。工場では鰹節、なまり節、イカの塩辛の下処理を行っていて、特に鰹節は評判が良かった。手を抜いていないためであろう。今年も郡山や塩竃などから、「今年のお歳暮に鰹節はないのか」という問い合わせが相次いだ。
今回の災害で中学高校の同級生が5人亡くなった。なんやかやで仕事が増えてきて、会計や長など仕事が回ってくる。出費も増えて大変だが、生きていられるのはなによりと考えて引き受けている。とりわけ会計関係の役が多い。八幡神社の氏子総代長もつとめている。
宮城県地域文化遺産プロジェクト
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