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当家は、私で16代目になる。父も祖父も婿養子であったため、なかなかシュウトオヤとの関係が難しかったと聞いている。祖父が芸達者だったため、父はしょっちゅう歌を歌わされて参ったという。
もともとは、海苔、牡蠣、コウナゴ漁などを家業としていたが、チリ沖地震(昭和35年)の津波があり、その翌年(昭和36年)船を売って漁師を廃業し、工場を始めた。平成23年7月8日で満50年になるので、2月には歌津の柏崎荘で新年会を行った。漁はやめたが、ベッカ(別家:分家)が高田で船団長をしている関係で、宴席では思いもかけない上席を用意されることが多い。家印は山に力。
ここに飾ってある古ぼけた掛け軸はかけっぱなしなので汚れて判別しにくいが鍾馗様である。あるときアメリカからきた機械で修復し、ようやくここまできれいになった。祖母が小さいときに旅の六部が訪ねてきて、「こちらにある鍾馗様が厄災を祓ってくれている」と語ったと伝えられる。今回も水は鍾馗様の手前までしか浸水しなかった。何となく力になってくれているような気がして大切にしている。
宮城県地域文化遺産プロジェクト
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