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荒浜の漁師の船は常時、仙台新港のそばに係留されていたが、震災時には23艘のうち2~3艘が沖へと逃げた。陸に戻るのに2日かかった船もあった。15トン、17~18トンの船は震災後の火災で燃えてしまっている。話者の船である「だいよし丸」は、津波から12日目に、菖蒲田浜から200メートル沖で奇跡的に話者の甥によって発見された。青森の船大工に来ていただき、アオヒバを用いて補修をした後、例年どおり9月1日からアカガイ漁に出ている。
ただし、それまではすぐに漁に出られず、船をドックに入れ、漁師たちは瓦礫すくいのアルバイトをしていた。1日の賃金が12,000円、船を出した代金は22,000円であった。
アカガイ漁は、8月20日にアカガイの放射能汚染の検査を経て、9月1日から操業開始したが、当初は1キロ1万円くらいで50キロくらい水揚げしている。2011年にはアカガイの他にアオコ(ブリの若魚)・サケ・イナダなどが捕れたが、2012年は、アカガイ以外は不漁。代わりにワタリガニがマンガンに入っていて大漁であった。震災後にアカガイは、以前より沖の方に生息をしている。この漁を続けられている理由は、海底に瓦礫が溜ってはいるが、津波がヘドロを流してしまい、浄化されているためだという。ツブカゴで捕るツブガイ漁も、以前は1キロ300円だったのが、今では1,700円の高値で取引されている。
年末にホッキガイを捕るオマカナイ漁は、海底に沈んでいる瓦礫が怖いので、曳いていない。話者は、それでもいくらか捕ってきて、正月用として親戚や知人の約30軒分を渡してあるいた。ただし、仮設住宅で住んでいる知人は、以前のように魚をもらいにくるようなことはなくなったという。仮設住宅の台所が狭いためである。
話者は、被災地の荒浜に1人で倉庫を建てて、日中はここで漁具の手入れなどをして、夕方には若林区荒井の仮設住宅に戻っている。他にも10名くらいの漁師が道具小屋を建て、生業のために利用している。彼らの小屋には皆、共通して黄色い旗を立て、集落移転に反対している。話者によると、海を相手にしている仕事であるために、毎日の天気予報などは、海のそばでなければわからないという。たとえば、海鳴りを聞くことによって風の方向がわかり、金華山に雲がかかるのが見えれば雨が降ることがわかる。これらは浜から遠く離れている仮設住宅からでは見聞きできないという。話者は、これらの伝承を若いころに建網の仕事の中で、当時のお年寄りから教えられたという。
宮城県地域文化遺産プロジェクト
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