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話者家は、もともと宮内の農家だった。屋号をヤマッコという。屋敷の裏に小山があったからだ。今でも近所では「ヤマッコの〇〇」で通る。田んぼは沖の原にあったが、後に海軍工廠用地として買収された。臨海鉄道が通っているあたりで、この鉄道は自衛隊までつながっていた。買収された後は、人から田を借りて話者①の祖母が米作りをしていたが、話者①が中学生のときに止めてしまった。畑は八幡神社の前にあり、新産業都市の工業団地造成の際に買収された。そこは今回の地震で津波をかぶった。
話者②は大正8年生まれ。今年で94歳。宮内にはもう1軒同じ姓の家があり、そこが本家。話者②の父が分家した初代。話者②の父は、話者②が4歳の頃、東松島市の大高森に雨乞いに行き、そこでドブロクを飲み過ぎて脱水症状で亡くなったらしい。リヤカーに乗せられて戻ってきた。当時は日照りが続くと雨乞いのために村の中を歩いたり、塩竃のイシッパマ(石浜)に行って雨乞いをすることがあった。話者家は婿養子をとることになり、話者②の義父となった。
話者②が長じて迎えた婿養子が話者①の父である。話者①の父は農家をやりながら高崎にあった役場に勤めていた。土地改良区で測量士をしていた。土地改良区廃止後は市役所へ入った。戦争にも2回招集された。柔道が得意で子供たちに教えたりもしていた。
海軍工廠建設のため、話者家が現在地に移転してきたのは昭和17年5月のこと。話者①の父は出征中だった。ここに建物が出来るまでは、八幡郵便局の近くの親戚のところにいた。当時は天童家の屋敷が今よりもずっと広がっていた。この家の前もずっと田んぼが広がっていた。家の敷地も田んぼを埋め立てた場所。最初の家は瓦葺きの平屋。たびたび水害にあった。ここはもともと海だった場所で、5、6メートル掘ると貝殻が出る。
話者①は昭和21年(1946)生まれ。上に姉が1人いる。もともとサラリーマンをしていたが、定年前に希望退職する。山や海に行くのが趣味で春から秋は飛び回っている。冬は電力会社の下請けで塗装のアルバイトしている。天気が悪いと作業ができないので、今日は休みになった。
宮城県地域文化遺産プロジェクト
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