T-1 気仙沼市唐桑町

2012
T-1 気仙沼市唐桑町
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[調査日]2012 年 12 月 16 日(日)

[報告者]
植田今日子 
[調査者]
植田今日子 
[補助調査者]
 
[話者]
(1)T144早馬神社神輿会の頭/養殖業(生年不明 - 男) 
不足した神輿の担ぎ手と神輿会

 「俺たち子どもの頃ってもう今のようなお祭りだったから。戦前からあったべねえ。子どもの頃からお祭りの中身はほとんど同じでねえかな」と梶原氏が語るほど変化の小さい通称「フナマツリ」は、半島根元の只越から先端の崎浜まで唐桑中がもっとも賑わう日であった。しかし唐桑の漁業や人口が変化していくなかで、「フナマツリ」は変化を余儀なくされてもいた。
 神輿渡御に必要な重い神輿の担ぎ手や旗を持つ人、太鼓を持つ人、賽銭箱を持つ人などは「オロクシャク(お陸尺)」とよばれてきた。少しずつ高齢化と人手不足によってお陸尺の確保には悩まされてきていた。
 「唐桑にお祭りでる地区がいっぱいあるでしょ。その地区にお世話人ってひとがいるわけさ。その地区ごとに。そのお世話人さんがその地区によって『お陸尺』っていうんだけどっさ、それを3人から4人ずつ頼んでお祭りの人出てもらってその中から神輿担ぐ人とか旗もつ人とか行列にいく人とか、割り振りしてやってたんですけど。あるときから若い人が少なくなってきてっから、昔からだんだん少なくなってきてっから、神輿担げる人が集まるってかぎらなくなってきたのね。年取った人が担いだりしてたんだけど」。
 唐桑の各部落から集めると行列で旗などを持つ人だけで15~20人になった。ふたりで担ぐ賽銭箱の担ぎ手、2人で担ぐ太鼓、太鼓を打つ人など結構な人数が必要な祭りであった。さらに神輿を担ぐためには交代要員も入れると40人はほしいところだという。
 「早馬山の下まで3合目くらいまで山の方へ上がっていく。小野医院のとこちょっと上がったとこから早馬さんに上がるとこ。そこ200メートル上がっていく。下りはいいんだけど行くときは大変。県道から外れて山の方に入っていくから。それがちょっと過酷だけど。20人ではきついもんねえ。交代する人もいないと。肩真っ赤になって」。
 そこで現在の宮司のKTさんが神輿の若い担ぎ手を確保するために「神輿会」という組織の立ち上げを漁協の青年部にもちかけた。漁協は、春のご祈祷の度に祈ってもらったり、お祭りでも事務所の前を神輿が通るときには玉串料を渡して必ず祈祷してもらう場所となってきた。神社がそんな漁協に助けをもとめた。
 「いまでも『お陸尺』はあるんだけども、神輿担ぐのだけは『神輿会』って宮司さんが、神輿の担ぎ手なくなってるから、このままではいなぐなっからって、宮司さんがつくったんだけど。ちょうど俺が青年部の部長やってたときだから、その話もちかけてきて『神輿担げなくなるのは祭りでなぐなるから』って。こういう風な話、宮司さんからもちかけられたんだけど。ちょうど俺が青年部の部長やってたときだから…10年以上になるかなー。5、6年は青年部やったからなー。10年以上になるかもしんねえなあ。神輿担げなくなるのは祭りでなくなるから、避けねばなんねってね。漁協でみんなどうすっぺっつったら、いいよって。今は県外の人も何名か。もともとこっちの人で転勤になったひととか。ボランティアの人もいるし」。
 こうして神輿の担ぎ手不足は回避されたという経緯があった。同じ頃、それまでなかった女性たちによる「道中手踊り」がはじまっていく。この時期を境に、担い手不足に陥りつつあった祭りが勢いを増したという。唐桑半島全域に氏子を擁するため、南は崎浜から北は只越まで、各地区から女性が各地区で揃いの着物や衣装を身にまとい、旧唐桑小学校のグランドから宿浦港へ向かって参道を順に踊り、練り歩いた。

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