0件
釜谷は大川小学校付近の上(カミ)から海側に向かって中(ナカ)・下(シモ)と区分されている。釜谷は大川の村都のようなところである。雄勝方面・北上方面ともに町場が遠く、陸の孤島であった。大川村の役場が置かれ、合併後も登記所としてしばらく残った。昭和30年代中頃にはすでに登記所としても使われなくなっていたが、釜谷の集会所として利用されるようになっていた。ただし集会所は、昭和40~50年頃にセンターが建つとそちらへ移り、登記所も無くなった。入釜谷の生活センターが建てられたのはこれよりも遅く、昭和50年(1975)頃である。
現在は河北インターチェンジ付近の三反走仮設団地へ住む人が多い。日中に釜谷の外で働く若い世代は生き延びたが、その時間帯に釜谷にいる年寄と子どもが亡くなった。釜谷の老人クラブでは40人あまりが亡くなっている。話者たちは今や釜谷の最年長の世代になってしまった。力のある、釜谷を守っていたような人が特に亡くなった印象がある。
三反走の仮設には自治会が無い。やろうと思えばできるだろうし、3年は入っていなければならないのを考えれば、自治会を作るのも良いのかもしれない。仮設は設備上の問題は特に感じず、むしろ震災前の釜谷が水洗トイレも一部の新築住宅にしか無かったことを考えると、かえって今の方が便利だとの意見もある。スイッチ一つで風呂が沸くなんてことは今までなかったし、狭くて物が置けないものの最近物置を作ってもらったところだし。ただし、日中働きに外へ出て仮設では寝るだけの男達と違って、一日中あの狭いところにいる女性陣などはやることもなくてストレスだろう。農業をしてみるとか、何かかにかすることがあった方が良いのかもしれない。
宮城県地域文化遺産プロジェクト
ページトップ