宮城県における東日本大震災で被災した無形民俗文化財調査成果データベース
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S 気仙沼市鹿折地区
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V 石巻市河北町釜谷地区
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警番について
警番といって、10年ほど前まで部落の当番で夜警をしていた。ボヤに備えて、21時と23時に当番者が集落内の見回りにあたるものである。基本的には戸主が当番にあたるが、出られなければ嫁が代わりに出役する。以前は上記2回に加え、深夜2時にも見回りの時間があった。部落で決めた当番のため契約講非加入...
被災時の状況
震災当時、自分は市内(市街地)にいた。工場で加工するための原料を運搬中に被災した。当時工場では16名(うち2名は実子)が働いていた。津波が来るのはわかっていたので、従業員は自宅に帰し、息子に工場の真空包装機など高価な設備をフォークリフトで避難させた。魚市場が見える裏の山(地所)に家族4人...
作物の変遷
戦前はサツマイモをつくっていた。終戦後しばらくして、空港用地や営林署の土地が払い下げられ、そこでサツマイモやスイカがつくられた。 昭和30年代に入って再び空港の滑走路やターミナル建設のために土地の収用が行われたが、その際に与えられた代替地でメロン栽培が始まった。そして、代替地以外の農家...
大浜地区の被災時の状況と、被災後の状況
集落の東側の人たちは、先ず高台にあるコミュニティセンターに避難した。しかし、コミュニティセンター近くにも水が来たため、山伝いにA家に避難し、その後、消防団の主導でB家に避難した。現在大浜で、自宅に住んでいるのは4世帯、立浜の分校跡地にある仮設住宅に20数世帯。仮設住宅に住んでいるのは、大...
月浜の年齢階梯組織
えんずのわりは子どもが主体となる行事であることは間違いないが、その参加年齢は近年だけでも頻繁に変わっている。話者によると、記憶にある限りの最初は11才までの参加であったという。その後、中学2年生まで、中学3年生までと変更され、来年度からは上述の通り高校3年生まで上限を引き上げる。言うまで...
学校での神楽教育
学校で笛と太鼓を教えるのは難しい。楽譜などがないからだ。震災前の状況としてはこうした中で臨時に雇われていた女の先生が重要な役割を果たした。彼女は盛岡出身で「さんさ踊り」で笛をやっていた。まず保存会で笛の様子をビデオで撮影した。それをみて習ってもらった。ずっと以前、伝承の手段として、譜面に...
社会組織
新浜内では、同姓の場合大抵ホンケ・ベッカ(本家分家)の縁故関係がある。そのような関係によって結ばれている集団をイチゾク(一族)と呼んでいる。正月にはイチゾクのあいさつに回る。新浜には42軒あり、森、佐藤、平塚などの姓をもつイチゾクがあった。結婚式の席順などもイチゾクの関係を考慮して決まっ...
被災した際の状況
今年度の蠣の準備(蠣棚の下準備)がほぼ終わり、蠣処理場で作業が終わり、いよいよ解散というときに起きた。その時は堤防のところにいた。まず地震の時は地鳴りがすざましく、まわり中、「ごうー」という音がした。老朽化した作業場にいたので近所のおばちゃんを連れて、蠣処理場のコンクリートの壁際に逃げた...
唐桑の漁業形態
昔は、男性にとって船に乗って漁をするというのは一種のステータスだった。陸で仕事をするよりも漁の方が収入が圧倒的に多いからである。そのため、病気などで海に出られない人を除いて、男性は全員漁師となった。一方で女性は船に乗ることさえ許されてはいなかった。船の神様は女性であるとされ、女性が船に乗...
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