宮城県における東日本大震災で被災した無形民俗文化財調査成果データベース
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S 気仙沼市鹿折地区
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V 石巻市河北町釜谷地区
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神輿の担ぎ手の主力
かつては、農協青年部が行っていたが、今は4Hクラブ(山元町農村青少年クラブ)である。今、笠野農協青年部は、2、3人しかいない。農業をしていても青年部ではなく、4Hクラブに所属する形に移行しているようだ。今回の担ぎ手のリーダーは、40歳前後のSさんで笠野、あるいは山下地区の農協青年部リーダ...
社会組織
新浜内では、同姓の場合大抵ホンケ・ベッカ(本家分家)の縁故関係がある。そのような関係によって結ばれている集団をイチゾク(一族)と呼んでいる。正月にはイチゾクのあいさつに回る。新浜には42軒あり、森、佐藤、平塚などの姓をもつイチゾクがあった。結婚式の席順などもイチゾクの関係を考慮して決まっ...
昭和20年代前後の笠野、花釜の生業(話者②、③より)
昔この辺りでは塩を作っていた。昭和27、28、29年ころは、八重垣神社ら南に1キロメートルほどのところに製塩工場があった。そのころは、まだ船もあった。陸につけるときは、枕木がひいてあり、その上を引いてワイヤーに巻きつける。自分たちも手伝った。当時船ではマンガ(鉄の爪のようなもの)でホッキ...
萩原神社の再建
震災で流された萩原神社を再建することができた。この間、契約講長として御神体をお預かりしていたので、一安心している。 再建は2012年3月の契約講総会の場で提案し、特に異論もなく承認された。費用は、当初の見積もりで70万円だったのが、見積もりに含まれていなかった土台の工事が必要になったり...
お盆について
近くの小野地区では灯篭流しがおこなわれている。 8月14日の夜には集会所で盆踊り大会がおこなわれていた。夜店なども出て、たいへんにぎわっていた。より以前には小学校が会場だったが、広すぎると人が集まっていても少なく見えるので、集会場に変更になった。 かつて8月13日には門柱のところで迎...
受け取り渡しと祭の鯛
祭のあとには受け取り渡しという行事があって、これは祭道具一式をヤドモトから次のヤドモトへ渡す儀式である。以前は、祭りの翌日に行った。必ず鯛を準備しなければならなかった。 神輿渡御の当日、祭りが終わるのに合わせ、鯛の浜焼きを準備した。炭を使って「焼くとも焦がすともない」ようにした。それを...
子供神輿
子供神輿を春休みに公会堂で実施していた。PTAが中心となって運営している。公会堂ではご飯などを振る舞っていた。かつては年に何回も近隣の集落へ出かけて行って担いでいたものである。
本家の代役の選出
本家となっている家で、その家長が亡くなるなどして本家としての機能を果たせなくなると、そのシンルイになっている家から本家の代役をたてることがある。話者家では、かつて近隣のH水産から分家し、H水産のシンルイとなったが、それ以前に2つの家が分家していたため、第三シンルイとなった。あるとき本家で...
地域史と話者のライフヒストリー 戦前・戦中~現代
昭和16年に海軍工廠建設のために住居地の強制撤収の準備が始まった。話者は4、5歳に満たなかったが、住居地移転について「強烈な記憶がある」と戦前・戦中の八幡地区の歴史を語り始めた。土地の強制買収が決定したとき、国民尋常小等学校(後の多賀城小学校)に集められて、当時の後藤一義村長によって配布...
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宮城県地域文化遺産プロジェクト
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