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戦前はサツマイモをつくっていた。終戦後しばらくして、空港用地や営林署の土地が払い下げられ、そこでサツマイモやスイカがつくられた。
昭和30年代に入って再び空港の滑走路やターミナル建設のために土地の収用が行われたが、その際に与えられた代替地でメロン栽培が始まった。そして、代替地以外の農家もメロンをつくるようになった。メロン(プリンスメロン)が流行ったのである。メロンの栽培は、種屋に勧められてのものだった。種屋はそこの土地に合う作物の種を勧めてくれ、場合によっては、試しにつくってみてくれと言ってただで種を置いていくこともある。メロンはこのようにして広まった。初期には、ビニールハウスではなく、トンネル栽培といって、竹籤(たけひご)でつくった骨組みにビニールをかけたものの中でメロンをつくった。北釜産のメロンには、「北釜クイーン」という名も付けられていた。
その後、メロンにかわって、チンゲン菜や小松菜、水菜がつくられるようになった。メロンは、正月に種を撒いて6月に収穫した。収穫まで半年かかった。これに対して、これらの野菜は、50~60日で売り物になる。そして一度収穫した後も、(長年つくり続ければ土の消毒が必要になるものの、そうでない場合は)土をうなって水をかけておけばすぐもう一度栽培が可能である。このようにこれらの野菜類は回転が速いため、メロンからどんどんシフトしていった。いま、メロンは市場に出すものはつくらず、庭先販売といって、客から注文があったものだけをつくって売っている。
宮城県地域文化遺産プロジェクト
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