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大川小学校の中へ入ると、1階天井は全て抜け、2階床が盛り上がっているので、波のあとだろう。
釜谷の農業用溜池からはもっとも多くの遺体が見つかった。もとの奥入屋敷への細道にある溜池のポンプ小屋は、釜谷で唯一残った建物である。雨風でかなり薄れたが、小屋の外壁には水位あとが付いているし、床には15センチほど泥が堆積している。釜谷霊園のところには、津波で流されたあと皆で拾い集めた墓石が置かれている。特に過去帳が流されたため法名碑を探したが、まだ1つ2つが見つかっていない。墓地をどうするか、元の場所に再び建てるか山を切って建てるか話し合われたが、結局元の場所の東へ土盛りして墓にすることとなった。
集団移転の話が出ており、道の駅上品の郷付近に候補地があるが、何人が行くことになるか分からない。結局2、3割くらいの人しか行かないのでないかと思うし、自身が行くかどうかも迷っている。母ちゃんと2人だけなら場所はどこでもいいのだが、今横浜に住んでいる息子は、その移転先を実家として帰りたく思うだろうか、など考える。ただたまに皆で話し合いはしており、なんとかなるだろうし、なるようにしかならないだろう。
釜谷では約200人が亡くなっている。外で仕事してた人らは助かり、釜谷に残っていたじじばば子供が亡くなった。津波が来るとも思わず、逃げようともしなかったかもしれない。若い人は田んぼをやる人などおらず、石巻や仙台へ働きに出ている。
今は河口に堤防が作られて排水が進められており、今日見えている作業は堤防に矢板を打ち込んでいるところである。これまでいくらやっても水漏れしたが、矢板が入れば排水がうまくいくだろう。
話者は毎日昼前に大川小学校へ来て花に水やりをし、松原の砂浜を歩いて遺体探しをしている。盆前にも手の骨を見つけた。波が荒れたあとは何かと流れ着きやすく、3日前も近隣で1人見つかったそうだ。今日も台風が近づいているので期待してきたが、ちょっと波が強すぎる。しかし波で流されてきたものは数日で砂に埋もれるので、まめに探さねばいけない。排水が完了すれば、松原でなくて川の中を探すつもりだ。獣の骨はよく見つかるが、人の骨を見つけられたのは、この間が久しぶりだった。
宮城県地域文化遺産プロジェクト
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