0件
閖上ではカレイ漁が盛んであった。塩釜、石巻、気仙沼などの港にも水揚げをした。カレイには夏期の産卵期が禁漁期間とされていため、夏になると「船を切り上げ」て漁を休み、船の掃除や修理を行った。
しかし大きな船を2艘持っている船主は、カレイの禁漁期間にシビ(マグロの若魚)やカツオを狙う漁に出る。彼らは朝早くでて巾着網をかけて漁をし、夜に港に帰ってくる。大漁だった場合にはウデコミ(唄込み)をしながら戻ってくる。このウデコミが現在の閖上大漁祝い込み唄である。
シビ・カツオを狙った漁には、運搬船と本船(親船)と呼ぶ大型船2艘と、シドブネと呼ばれる手漕ぎの小型船数艘で行く。大型船2艘で漁に出ることから、これを二艘曳きと言う。本船には綱梯子をつけた大きなカゴをぶら下げ、そこに登ったひとが海の色を見て魚群を探した。魚群が見つかると、デンボ(ダイボウ、船頭のことか?)が声をかける。網をつけたシドブネが魚群を囲むように網をめぐらし、網の端を持ったシドブネが網を合わせると、網はキンチャク状になり、魚は出られなくなる。網の中にシドブネが入って魚を捕り、運搬船に乗せて港まで運ぶ。
シビやカツオが800本から1,000本捕れると大漁なので、ウデコミをする。これは名取川の河口付近にあった港に向かって船が入ってくるとき、シドブネに乗った漁師が板子(イタコ、船底の板のこと)を外し、それでフナドリ(船体の縁)を叩きながら「サーサー」と歌うことである。カバタ(川の端、川端)に船を迎えに出てきたひとたちは、歌うひとの声を聞いて、「○○の船が戻ってきた」と分かった。水揚げした魚は馬に乗せて名取駅に運んだ。
閖上には「○○丸」と名がつくような大きい船を持つ船主は何名かいたが、すべての船主がシビやカツオを捕れるわけではなかった。シビやカツオの漁は二艘曳きで捕るため、大きな船を2艘持っていなければならなかった。メヌケやタラも二艘曳きで捕った。二艘曳きの休息時間には、年配の漁師は編み物をし、若年の漁師は読書をした。話者も、船頭をしていた父にセーターを編んでもらった。
二艘曳きをする船主も、カレイの禁漁が明けるとまたカレイ漁に戻った。船の名前はトヨ丸、シンショウ丸というように、登録されている船の名前ではなく、その船を持つ者の名前の一部を当てて呼んでいた。
尋常小学校高等科1、2年生になると、男子も船に乗せられ、シビやカツオ漁の手伝いをした。その礼として、シビ一本などをもらって帰ってきた。話者の経験では、もらってきたシビなどは家でさばき、バケツに入れて井戸の水の中に吊しておいて保存した。翌朝になったらそのバケツを引き上げ、オバサンの家などに届けたりした。また、朝食にも刺身がでた。
漁が終わり、漁師たちが陸に上がると船主の家でオキアガリ(沖上がり)の宴会をする。これは船主が漁師たちに振る舞いをすることで、オキアガリのときにアタリメ(船主から漁師への賃金)をもらう。オキアガリのときにアタリメをもらうのはカレイ漁のときも同様である。
大漁祝い込み唄の替え歌は、オキアガリのときに盛んにつくられた。話者も漁師が歌っているのを聴いて歌を覚えた。踊りは女性が歌に合わせて自由に踊っていたもので、決まった振付はなかった。盆踊りなどで踊られていた記憶もない。
宮城県地域文化遺産プロジェクト
ページトップ