宮城県における東日本大震災で被災した無形民俗文化財調査成果データベース
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S 気仙沼市鹿折地区
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V 石巻市河北町釜谷地区
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町内会
広浦の住民は全戸が飯塚町内会に所属する。町内会の規約として、入らないひとは住むことができないからである。震災後、住民は仮設住宅の町内会と、飯塚町内会のふたつに加入している。飯塚町内会が解散しないのは、以前居住していた土地の売買などに関する情報などを通知したりするためである。なお、話者の居...
第 1の転換期
昭和40年代には漁業が衰退傾向に向かうとともに、若者は浜の外に働きに行くようになった。とともに、石巻などにつとめに行く者も増えた。このため、漁業暦・村の年中行事と生活の間に乖離が生まれ、1950年代には獅子舞いは次第に停滞、形骸化しかかっていた。ところが第一の大きな転換は、昭和32年の東...
話者家について
話者家は、もともと宮内の農家だった。屋号をヤマッコという。屋敷の裏に小山があったからだ。今でも近所では「ヤマッコの〇〇」で通る。田んぼは沖の原にあったが、後に海軍工廠用地として買収された。臨海鉄道が通っているあたりで、この鉄道は自衛隊までつながっていた。買収された後は、人から田を借りて話...
震災後の漁業
震災後、しばらくは地先の海底の瓦礫とりを無事だった数艘の船で行なっていた。日当で、人間は12,000円、船を出せば1艘に付き22,000円が支給された。 アカガイについては、8月20日から放射能の検査を経てから、9月1日から10日まで操業を開始してみた。震災後は共同操業になり、タルを平...
高台移転
一軒当たりの上限が100坪と決められているが、時期が終われば海の資材はすべて陸にあげて、保管しておかなければならないため、決して十分な広さではない。また、かなり臭いがするので住宅が密集しているところには置けない。したがって、海に近いこの土地(自宅跡)は、売らずに作業場とせざるを得ない。も...
生業の復興
去年の今頃、家、機械、全てを流されて、40~50代のものが「ダメだ、ダメだ」といって呆然としていた。そして、それまで畑をやっていた者が、「(会社に)勤めるか?」などと言っていた。それに対し自分は、「お前ら、勘違いしてんじゃねえか。大卒、高卒でも就職できねえんだ。そんな単純じゃねえ」と言っ...
浜吉田の被災
(津波は)常磐道の下までやってきた。浜吉田駅のあたりで1.4メートル。松が流れてきて、ホームの間にも落ちていた。松が来なければこんなに傷まなかった。(話者①は)親戚で9人が亡くなり、1人がまだ行方不明である。
高台移転
波伝谷の高台移転の候補地は現在、部落内では坂本の山側のサダミネと神社東側の松崎跡地の2か所あり、それ以外に個人で家を建てるという人が数軒、また南三陸町で準備するゴルフ場跡地の復興住宅に移るという人もいる。周辺の部落は、すべて1か所であるが、波伝谷は75軒ほどあったので、最初は1か所でと言...
話者の活動
話者は北釜地区の区長を務めて3年目であり、その前は町内会の会長を7年間務めた。仙台空港ターミナルビルも行政区としては北釜地区に入るため、話者はターミナルビルのテナントにも市からの配布物などを配る仕事があり、空港内によく出入りした。また、区長は地区内で葬儀があると弔辞をよむ。ひとつの葬式に...
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宮城県地域文化遺産プロジェクト
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