G-2 多賀城市八幡地区

2011
G-2 多賀城市八幡地区
(PDF) 

[調査日]2011 年 11 月 21 日(月)

[報告者]
菊地暁 
[調査者]
菊地暁 
[補助調査者]
沼田愛 
[話者]
(1)G051元警察官(1945年生れ - 男) 
話者家について

 八幡には何軒か話者家があるが、親戚関係は特にない。ウチの分家は横浜にあるだけ。相当昔のことだが、話者家で家が途絶えそうになったことあり、話者家から養子を迎えて家をつがせた。それで話者家が本家になっている。過去帳を見ると、初代が天保3年(1832年)に62歳で没、3代目が明治30年に71歳で没、4代目が昭和5年に74歳で没、5代目、話者の祖父A氏が昭和47年に没、6代目の父B氏は大正6年生まれで平成8年に没。7代目の自分(話者)は昭和20年生まれ。
 話者家は天童氏に付いてきて八幡に入ったのだと思うが、伝え聞いてだけで、文書もない。今の仙台市の裁判所に天童家のお屋敷があり、話者家は幕末まで留守居役を務めていた。戊辰戦争に際してはヒイジイサンの兄弟が田原坂でも戦っているし、榎本武揚に従って咸臨丸で北海道に向かい、手紙1通よこしたきりで消息がわからなくなった兄弟もいる。ヒイジイサンは、おそらく四男だろう。
 話者家は維新後に食い詰めて、所領のあった八幡に下向することになった。都会暮らしのヒイジイサンはその時初めて田んぼを見たという。最初は、天童のお屋敷の近く、今マンション(ニューライフ馬場)があるところに屋敷を賜った。そのあたりは草刈家など、天童の家臣が集まっていた。ところがその場所は洪水の被害が度重なったので、大正の頃、現在地に移った。その時の証文も残っている。この土地は古地図にある光徳院の跡。移り住んだ屋敷には扉戸がなく、ムシロが下がっていたという。それくらい貧乏だったのだろう。
 祖父のA氏はもともと医者になりたくて東京へ逃げ出したのだが、結局は小学校教師になった。父も教師で最後は中学校の校長を務めた。おじは塩竃高校に勤めた。自分は警察官で退職して2、3年になる。息子も警察官になっている。
 A氏は郷土史家でもあった。山形の天童と八幡の天童の関係を調べたのはうちのジイサンが最初。八幡の天童さんは知っていたのだろうが、負けて逃げたというのであまり言いたくなかったのだろう。『末の松山鐘のひゞき』という郷土史の冊子を書いており、前書きに郷土史を調べた経緯を記している。多賀城町の文化財の委員も務めていた。
 A氏は、天童家の人が家に来ると、這いつくばるぐらいに頭を下げて「わこさま、わこさま」といっていた。「わこさま」って何のことかと思っていた。昔の感覚が抜けきらなかったのだと思う。

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