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45号線から先は何もなかった。八幡神社がぽつんとあっただけ、その先に海軍工廠跡地があり、遊びに行って掘り返すと機関銃の部品などが出て来た。米軍機が海軍工廠を爆撃に来たことを母が語っていた。
この辺りは、宝国寺から土地が高くなって山になっている。住む家も昔からあまり変わっていない。海軍工廠造成の際はここの山を崩して埋め立てをした。仙台空襲の際はそこから仙台市内の燃える様子が見えたという。
八幡は喜太郎神社横の通りを境にして、砂押川上流の地域をウエノイ、下流の地域をシタノイという。イは家をさす。八幡保育園のあたりはスナッパラといい、砂と土がまざった土壌になっている。天童家の周辺はオカマイという。「お上の家」がなまったものだろう。天童家は3回ほど火事になっており、今は普通の家だが、もとはもっと殿様らしい立派な屋敷だった。
天童家の家臣たちで備荒倉組合というものを作っていた。家中は農家が多く、仲間で籾を出して助け合ったのではないかと思う。その集まりが一年に1度あって、小さい頃には正月か2月か3月に、寄り合いをしてあんこ餅を食べた。宿は持ち回りで、天童家は名誉職というか別格の扱いだった。
備荒倉組合は冠婚葬祭にも関わった。組合で御膳やお椀も持っていた。葬儀があると、穴掘り、位牌を持つ人、祭壇を担ぐ人などの分担を組合で決めた。自分が小学生ぐらいの頃までは、棺は殿様の乗った駕籠に入れて担いだ。駕籠は今でも宝国寺本堂の上のほうにある。葬列を務める人は、袴羽織だったので、モモダチにした(袴の裾をとめる)。袴の紐は普通蝶ネクタイのように結んだのを、横に十文字に結んだ。中は普段のアワセで、上から羽織りだけ着たのだと思う。お寺に入った後、葬列が4回まわる。葬儀が終わると、履いていた草履はお寺に脱ぎ捨てていった。仙北では葬列に旗を立てたりねじり鉢巻きをするところが多いが、このあたりではしなかった。実際に葬列を務めたのはジイサンまでで、オヤジも自分もやったことがない。ジイサンの葬儀は葬祭業者に任せた。
現在、八幡には宝国寺と不磷寺の2つの寺があり、いずれも臨済宗。不磷寺のほうが古い。宝国寺には天童家の位牌があり、たいへん大きい。「慶長○年」と書いてあり、ジイサンに連れられて見せられたが、よく読めなかった話者家も八幡に移ってからは宝国寺の檀家になっている。墓地は奥が古く、手前が新しい。
宮城県地域文化遺産プロジェクト
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