0件
不磷寺の左隣に有名な鍛冶屋があった。もともと美濃から来て、仙台藩のお抱えになったらしい。銘は白龍子永繁と見龍子永繁といい、十数代続いたと思う。維新後、失業して野鍛冶になった。よく切れる評判で、近在近所から注文があった。塩竃神社にも刀を奉納している。
ウチのバアサンが産婆をしていた時、用心のために守り刀を作ってもらった。自分が小さい頃は引出に仕舞ってあり、ひどく錆びていたが、最近研ぎ直してもらうと立派なものに戻った。
バアサンは終戦後に亡くなるまで産婆をしていた。自分もバアサンに取り上げられた。このあたりは工場に連れて来られた朝鮮の人も多かったが、その人たちからも信用され、子供も取り上げていた。朝鮮の人は酒がなかった頃、自分で作っていた。今も飲み屋をやっている人がいる。
宮城県地域文化遺産プロジェクト
ページトップ